たなまっぷ 歴史
歴史
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田名四ツ谷石神社
社は県道相模原愛川線の四ツ谷交差点にあり、四ツ谷の守り神として信仰されています。境内には地神塔、庚申塔、秋葉塔、六地蔵、二十三夜塔、大山道の道標、三ケ所橋供養塔など、地域の石造物が集められています。川のない四ツ谷に橋供養の石塔があるのも不思議ですが、かつては梅雨時に畑から野水と呼ばれる湧水が溢れ、それを防ぐ水路が何本も掘られ、その水路に橋がかけられていました。晦日まいりと初詣、9月の第1土曜日の祭礼が盛大に行われています。
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相武電気鉄道計画跡地
今から90年前、東京の渋谷から世田谷、溝の口、鶴川、淵野辺、上溝、田名、愛川を結ぶ鉄道の計画がありましたが、関東大震災に襲われ中止されました。その後2回再開されましたが、1928(昭和3)年の経済不況の波を受け、1935(昭和10)年に元の地主に返還され、1944(昭和19)年に会社は解散しました。田名3558番地付近に線路の敷設跡が残されています。
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金刀比羅神社
昔は一族の守り神として祀られていたものといわれます。一般に金刀比羅宮は交通安全の神として信仰されました。現在は自治会で1月の第2日曜日に祭礼が行われ、葛輪の家々ではお札と干支札を授かり自宅の神棚に祀ります。祭りの日には、境内でくじ引き・餅つき・だんご焼きが行われ、地域住民の楽しみの1日となっています。
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葛輪地区石造物群
田名2797番地の三角形の土地に、明治から昭和にかけて道路改良工事のたびに散在していた石仏が集められました。地蔵菩薩、六地蔵、常夜塔、庚申塔、光明真言塔、馬頭観音、崇徳報功碑(日露戦争記念)などがあります。石造物の中には、5000年以上も前の縄文時代中期の遺物、石棒も保存されています。
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不動様
千葉県成田山にある成田不動(新勝寺)をお祀りしたといわれる不動堂です。不動とは不動明王のことで、仏様の一人、大日如来が悪魔を懲らしめるため怒りの顔に変わったものといわれています。
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清水地区石仏群
不動様の近くに、1784(天明4)年の地蔵様をはじめ、双対道祖神や、庚申塔、馬頭観音などの石仏が並んでいます。
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地神塔
この大きな石は相模川から背負われてきたものといわれ、石の表には「地神塔」と刻まれています。地神塔は、江戸時代の終わり頃に流行した土の神を祀る信仰の塔で、地神講と呼ばれる仲間によって建てられました。
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観音堂(清水自治会館)
自治会館の左に観音堂が祀られています。この観音堂は聖観音といわれ、昔山伏に背負われて来たと伝えられています。堂の裏には、1761(宝暦11)年の僧侶の供養塔である無縫塔などが並んでいます。
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清水取水口
相模原幹線用水路は、田名の清水頭首工から当麻地区までの全長5.1㎞の用水路で、望地地区約18haと当麻地区約24haの水田のための農業用水路です。当初の取水口は、江戸時代に建設された烏山用水の田名の滝地区にありました。その後明治末期にその上流、田名の清水地区にも設けられました。1967(昭和42)年に清水下の自動堰が完成し、取水口は現在の1か所になりました。
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徳本念仏堂
坂を下りはじめ、滝と清水に向かう道の分かれたところに、徳本行者の念仏塔があります。徳本は1578(宝暦8)年に紀伊国(和歌山県)の日高に生まれ、25歳で仏門に入り、諸国を巡り各地に念仏を広めました。相模原市には晩年の1817(文化14)年11月に訪れています。
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おひのもりの碑
伝説によれば、昔戦いに敗れ敵に追われたお姫様の一行が、ここまで逃げてきたところで殺されてしまい、村人によって葬られ、祀られたといわれています。ここでは、雨乞いの行事とは反対の雨ばかり降り続いたとき、早く晴れるようにと願う天気祭りの行事が行われたといわれています。
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秋葉大権現
静岡県の浜松市春野町にある秋葉山の秋葉山の秋葉寺三尺坊のことで、火坊鎮護の神として火災から財産を守るため、江戸時代から人々の信仰を集めていました。灯籠は、1878(安永7)年に滝の人々によって建てられました。相模原市内では23基が現存し、そのうち6基が田名地区にあります。滝の人々も、かつては交代でこの灯籠に灯明をともし、村の安全を祈っていました。
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滝坂
滝集落にある坂なので、この名があります。堀之内地区と滝地区を結ぶ坂です。石碑は昭和63年3月に相模原市により設置されました。
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宗祐寺
宗祐寺を開いたお坊さんは、仏光善月禅師という人で、江戸時代をはじめ、1616(元和2)年、徳川家康と同じ年に亡くなったといわれており、宗祐寺の歴史は400年を超えることがわかります。建物は江戸時代に火災にあっており、現在の本堂は1982(昭和57)年に改築されたものです。石段を登りきると、仁王門、大きな本堂、庫裏のある境内があります。左手のあずま屋からの展望はとてもよく、水郷田名や滝の家並み、相模川の雄大な流れや遠く大山の姿を望むことができます。
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滝の渡し
滝地区と対岸の葉山島下河原地区を結んでいました。相模川には、他に久所(水郷田名)の渡しや望地の渡しなどがありましたが、滝の渡しは最も近年(昭和47年頃)まで使用されていました。現在は「滝の渡し」の地名の石柱があります。
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亀の甲石(滝自治会館)
敷地の中には、廃寺となった宝永寺の本尊(地蔵菩薩)が安置されています。宝永寺は久所の八幡宮の別当寺で1191(建久2)年に建てられたといわれています。自治会館の前には、1889(明治22)年の大洪水の時、前を流れる相模川の中州に打ち上げられた大亀が祀られています。以前は毎年9月9日に、この亀を偲んで「亀の甲祭り」が行われていました。
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江成久兵衛像
江成久兵衛は、用水路、堤防掘り、開田という三大事業を成し、1900(明治33)年に83歳で永眠されました。その事業の功績を称え、没後100年忌に顕彰碑が建てられました。
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江成久兵衛土手石柱
石柱がある付近には、2mほどの高さの土手がありました。
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田名八幡宮
田名八幡宮は、平安時代のはじめ、798(延歴17)年から天地大明神が祀られていたということです。その後、江戸時代に入った1649(慶安2)年に八幡宮を本社にあらため、将軍家光から6石1斗の社領を安堵されたといわれています。例年1月6日に行われる「的祭」は相模原市の無形文化財に指定されています。また9月1日には大祭といわれる本社八幡宮のお祭りが行われます。1974(昭和49)年に復活された獅子舞が今も奉納されています。
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ばんば石
八幡宮境内の北西の隅に、雨乞い行事に使われた「ばんば石」が安置されています。ばんば石は、日照りが続くと相模川の「一の釜」と呼ばれる深みに沈められました。この行事は、1947(昭和22)年まで行われていました。
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白子園稲荷・大鷲神社
【稲荷社】鳥居をくぐって進むと、改築された二つの社が目に入ります。向かって左が白子園稲荷で、右が大鷲神社です。白子園稲荷の左には秋葉権現常夜塔が安置されています。
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稲荷神社(新宿)
この稲荷様は新宿自治会で管理している神社です。社の横には1792(寛政4)年に建てられた石灯篭が2基あります。1基には「稲荷大明神永代常夜」と刻まれ、他の1基には「秋葉大権現」と刻まれています。社は1990(平成2)年に建て替えられ、境内も整備されました。左右の銀杏の木がかつての森の面影を残しています。
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稲荷神社(望地自治会館)
望地の人々が祀るもので、鳥居の奥左右には1796(寛政6)年の灯篭があります。社の前には望地、陽原の人々によって建てられた秋葉権現と祇園牛頭天王の常夜燈があります。
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火の坂
昔、坂の上に住んでいたおばあさんの家に、夜な夜な来てはいたずらするタヌキがおり、たまりかねたおばあさんが、ある時「いろり」の火をタヌキに投げつけると、タヌキは火だるまになってこの坂を転がり落ちたといわれています。今では坂の下のほら穴の中にタヌキ菩薩が祀られています。
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馬頭観音
馬頭観音は、愛馬の事故死を悼んで大正時代に建てられた供養塔です。事故が起こりやすい坂道などには他の地区でも見られ、田名地区内におよそ60基あります。
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烏山領制札場旧跡
1728(享保13)年以降、明治維新までの田名村は、下野国(栃木県)にあった烏山藩主大久保氏の領地でした。制札場は幕府や藩の命令、知らせなどの札を立てた場所です。
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蚕影山神社
堀之内自治会館の脇に蚕影山の社があります。この地は昔諏訪社の敷地でした。今は蚕影山の祀の中にお諏訪様と金毘羅様一緒に祀られています。蚕影山は養蚕の神として信仰を集め、相模原市では、江戸時代の終わり頃には各地で盛んに行事が行われていました。
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田名氏の屋敷跡
田名氏の田名二郎兵衛広季は、鎌倉時代の武蔵七党の一つである横山党の五男で、有力武士としてこの地に屋敷を構えていたといわれています。1212(健暦2)年5月3日の和田合戦(和田義盛と幕府軍との合戦)のときに和田一族に加勢し、由比ヶ浜、若宮大路での激戦で敗死してしまいました。屋敷はその後明覚寺(田名小学校の前身)となり、後に田名村の役場になりました。現在は田名民俗資料館や大杉公園となっており、明覚寺の僧侶の墓跡があります。
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渡辺玄泰の墓
この墓地が渡辺家の墓で、「村鏡院玄廊泰扇居士」と刻まれた右手の小さな墓石が玄泰のものです(墓碑銘は1849(嘉永2)年)。玄泰は、江戸時代の終わりの1847(弘化4)年、飢餓と重税で苦しむ人々を救おうと駕籠訴を計画して捕らえられ、その後牢屋で亡くなったといわれています。戒名の「村鏡」や「廊」の文字には、玄泰の勇気ある行動や苦難が示されています。左手の大きな墓石は子孫の医師弘庵のもので、田名村の村長としても地域の発展に貢献しました。
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観音堂(新宿自治会館)
観音堂は新宿自治会館の中にあります。今の建物は、昔震災にあって建て直され、自治会館と一緒になっています。この場内には1813(文化10)年の二十六夜塔や1784(天明8)年の六地蔵、道祖神などが集められています。二十六夜塔は女性の手で建てられたもので、二十六夜の信仰は類例の少ないもので貴重な石造物といえます。また夷申塔には「田名」を「棚」と記した例を見ることができます。
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天地社
神社の手前には湧水の小さな池があります。1726(享保11)年の記録には塩田天地大明神とあり、堀之内の明覚寺支配とされています。かつて集落内にあった日枝神社と御嶽社も一緒に天地宮の社殿の中に祀られています。境内の左手には元禄年間と宝暦年間の夷申塔や、享和年間の御嶽社、安永年間の天地大明神の御神燈などの石造物があります。
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舟守地蔵
塩田さくら橋近くにいくつかの石造物があります。1823(文政6)年の六字名号塔や、1776(安永5)年に田名をはじめ、上溝、下溝、九沢の信者によって建てられた出羽三山供養塔などがあります。その中に船に乗った珍しい地蔵様を見ることができます。この地蔵様のいわれは、相模川に近いことから船運あるいは漁労に関係する信心深い人によって造られたものと思われます。
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二三夜塔、二六夜塔
【二十三夜塔】よい子孫を残すために男女が別々に講を作り、二十三夜の月を拝んだ後は女性たちだけで夜を過ごすというもので、同衾(一つの寝具に寝ること)を慎むため、男女は別々の家に集まって過ごしました。この行事は男性が組織する庚申信仰とともに多く行われていました。
【二十六夜塔】二十六夜の月には阿弥陀、観音、勢至の三尊が來迎するので月の出を拝みました。また養蚕の守り神として信じられ、この夜は機織りの上達を祈る女性たちが集まって過ごしました。二十三夜塔と同じ石に刻まれています。
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山王社
【山王社】山王社の敷地内には半在家の各地にあった庚申塔や道祖神、馬頭観音などが集められています。社の中には3棟の祠(稲荷社、山王様、社宮司社)があります。山王様の中には三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)の御本尊が祀られています。
【芋っ葉灯篭】山王社のお祭りは昔から9月13日でしたが、最近は13日に近い休日に行われます。この時期は雨が多く、石灯篭の火が消えそうになるので芋の葉をかぶせたことから「芋っ葉灯篭」と呼ぶようになりました。
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坂の上の石造物
念仏供養塔、地蔵菩薩像、庚申供養塔が祀られています。少し離れた場所に百万遍供養塔が家の塀に寄りかかるように立っています。
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地神塔
この地神塔は陽原の地を守る神として祀られ、自然石で彫られたものが多い中、角柱石で1712(正徳2)年に彫られた珍しいものです。
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南光寺
1335(建武2)年、この地に鎌倉建長寺の住職を務めた枢扇妙環和尚が陽原南光寺を創建しました。山門前には六地蔵をはじめいろいろな石仏が祀られています。この寺には戦国時代(1513(永正10)年)の板碑も残されています。
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金井家先祖の墓
崖の岩間から水が湧き出るヤツボが数か所あり、作物が育つ良い土や人が住む条件がそろい、この土地に先祖が住み着いたといわれています。不動尊塔、百万遍供養塔、参燈篭、地神塔、上座、大姉霊塔などの石仏も残されています。
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望地弁財天
弁天様は、元は江の島弁財天に安置されていたものです。明治の神仏分離令によって綾瀬市の吉岡剤運寺に安置されていましたが、養蚕の守り神として望地に移して祀られたといわれています。現在は相模原市の重要文化財に指定されています。
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望地河原開田記念碑
1946(昭和21)年から嘆願陳情を重ね、翌年築堤並びに水田造成工事に着手し、望地、陽原、半在家、塩田の有志200余名にて望地河原開田事業組合を結成し、人力のみで造成しました。計り知れない労働力が要求されましたが、同年9月の台風による大洪水で一瞬のうちに流出してしまいました。しかし、組合は挫折することなく、約1000mの堤防と18町5反の水田を完成させました。9年に渡る組合員の努力が刻まれている記念碑です。
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望地の渡し
この辺りには対岸の六倉と望地を結ぶ渡し場がありました。そのため「六倉の渡し」とも呼ばれていました。上流の「久所の渡し」が開かれる以前には、大山参りの人々にもよく利用されていました。
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ヤツボ
雨水が浸透し水を通さない岩の層に至ると、岩の露出した所で泉となって湧き出しており、夏冬気持ちよく使えます。昔は崖の上の家々にとってはかけがえのない洗い場でした。野菜などの食べ物や汚れものとで使い分け、汚れた水も湧水のためすぐにきれいになります。
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六地蔵
この六地蔵は、一本の石柱に二体ずつ三面に六地蔵を刻んだもので、江戸時代の末、1862(文久2)年に子どもの死を悼んだ人によって建てられたといわれています。他にも二十六夜塔、庚申塔、庚申供養塔、念仏供養塔、馬頭観音が残されています。
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田所家先祖の墓
先祖は鎌倉幕府の有力御家人梶原景時、景季親子に仕えていた。田所采女介富康氏といわれています。1199(正治元)年の梶原親子没落後、田所采女介富康と田所一族八家は、共に故郷の下野国塩谷郡(現在の栃木県の北方地域)に落ち延びて行く時、そのうち四家が当地に住んだことから「半在家」の地名になったともいわれています。しかし、一族の直系が元禄の頃途絶えたため、子孫三十五家が1933(昭和8)年に墓を修復し碑を建立しました。
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田名西部土地改良区
農地の集団化等を目的に基盤整備が行われ、1996(平成8)年に完成しました。
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山王坂
宗祐寺の西、相模川沿いの坂は山王坂と呼ばれています。名前のいわれは鎮守、山王社が坂の中ほどにあったことによります。
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久所の渡し
高田橋付近には、対岸の小沢地区とを結ぶ渡し場がありました。おもに大山参りの人々がよく利用したため、久所はその宿場としてにぎわいました。石柱が高田橋の橋詰に立っています。
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新堀用水路(旧烏山用水)
1858(安政5)年、当時の領主下野国(栃木県)鳥山藩によって年貢増収のため計画された新田開発用の用水です。しかし、この用水は完成まもなく1860(万延元)年の洪水で流出してしましました。その後しばらく用水と新田は荒地と化していましたが、江成久兵衛は自分の財産をつかい用水の改修と土手の修復を行い、久所河原の新田開発を完成させました。
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法仙坊
法仙坊は伝説上の豪傑の名前で、昔このへんに住んでいたといわれています。ある時、法仙坊は相模川の対岸の小沢城に住んでいた小沢太郎と戦い、敗れて亡くなったといわれています。また、この辺りの地名「矢のはけ」や「矢向かい」は、この戦いのときに矢がたくさん落ちたためにつけられたといわれています。
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馬のつくろば
相模川の河岸についた荷物を背負って坂を上る馬をつくろう(手入れなどをする)場所で、馬のお医者さんもいました。ここには馬頭観音の塔が建ててあり、病死や事故死の馬の霊を慰めました。
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万平穴
江戸時代の終わり頃、陽原の中島万平は安政の飢餓と烏山藩の厳しい年貢の取立てに対する食糧増産のため、相模川から望地河原に水を引くための穴を掘りました。1856(安政3)年に着工しましたが、飛び先の下の岩層を掘り通すことは容易ならざる苦労がありました。金井津右衛門の協力を得て3年有余の歳月を要したといわれています。隧道からの用水は河原を稲穂の波打つ水田としましたが、相模川の氾濫で水田は流出してしましました。
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弁天どぶ
川の水がよどんでいる所や淵を「どぶ」と呼びます。ここは「弁財天」の近くにあることから「弁天どぶ」と飛ばれています。
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地蔵様
新宿の十字路の角に、道祖神や1815(文化12)年の地神塔とともに地蔵様や1695(元禄8)年の念仏供養塔などが建っています。道路の拡張とともにその場所を変える石造物が多い中、この文化遺産は信仰心の厚い個人の方が屋敷の一角で大切に保護しています。